いつの間にか30歳を越えて、それなりに酸いも甘いも経験してきたような気がしている、そんな中常に頭の中に形容しがたく漠然としていた事象が最近になって言語化できることが判明したので備忘録的に記事にしてみる。
言語化
ある昼休みいつものようにWebメディアの新着記事に目を通していた、内容はベストセラーとなっている「質問の本」に書かれている質問に答えていくというもの
この質問の本に「めちゃ幸せに一年間過ごせるが、その記憶は一切残らないという条件付きでもいいか?」というものがあり、回答側のライター達はその質問に「記憶に残らないのなら体験したくない」という返答をした。その返答に対し出題側のライターは「意味の分からないボーナスより、自分という人間の連続性の方が大事だと」と感想を述べたのだった。
筆者はこの「自分という人間の連続性」という文章を見て雷に打たれた気分だった、日々自分の頭の中に漠然とあった疑問が凝縮され言語された瞬間だったからだ。
自分という人間の連続性
人間は記憶する生物だ、失敗・成功・喜怒哀楽…その全てを脳味噌に刻み込んで成熟していく。要はその積み重ね・連続性によって自分を日々バージョンアップしていくことを言語化したのが「自分という人間の連続性」だったのだ。
その一方で人間は忘れていく生物でもある、生まれた直後の記憶がない人が多いように過去の出来事は記憶の中に埋没していく。
この記憶が自分という人間の連続性を裏付ける役割を持つ、あの日挫折したから今の自分がある、あの成功があったからこのポジションに付いている。といった具合に記憶が自分という人間の連続性を生んでいる。
筆者は記憶力があまり良い方ではない、小学校のころの記憶はもちろん大学生のころの記憶も若干怪しい。さすがに強烈に覚えていることもあるが、楽しかったことだけは覚えているのにすっぽりと抜け落ちてしまっている感覚の方が強い。
特に記憶力のいい学生時代の友人と飲んでいると、あの頃教えてもらった先生の名前だとか、馬鹿笑いした学校内の事件だとか、一緒に経験したはずなのに筆者だけほとんど覚えていないことが多く、自分のことなのに疎外感を感じることがあるのだ。
つまり筆者は自分という人間の連続性が薄い、自分を自分たらしめている過去の記憶が薄いばかりに思い出話というエンタメを最大限楽しむことができていないのである。そればかりか、本当に自分が経験したのか?という疑問まで沸いてしまう。
もちろん筆者という人間は一貫して同じ人間であることはわかっているし、自分は自分だというアイデンティティはある、頭がおかしくなったわけではない。
自分
ではなぜそんな疑問がわいてしまうのか、それは断片的に思い出される自分の立ち振る舞いや性格がどうにも現在の自分と結びつかないことが多いからだ。
小学校低学年時代のとにかくお茶らけていた自分、高校に入ってめちゃくちゃにいじられていた自分、大学に入ってからの自分、無職だったころの自分、社会人になったときの自分。
そのどれもが確かに自分であって、徐々にグラデーションして現在の自分を形成しているのはもちろん分かっているつもりではあるのだが、その繋がりの部分がすっぽり抜け落ちてしまっているために実感がわかないのだろう、さながらミッシングリンクのよう。
このミッシングリンクはどれだけ時間が過ぎても埋まるものではないし、これからも続いていくと思うと自分を楽しめていない気がしてものすごく損をしているような気分になる。
人間の細胞は数年ですべて生まれ変わるというので、数年前とは違う自分になっているのは当たらずとも遠からずな意見なのかもしれない。しかし厳密にいえば脳細胞はすべてが入れ替わっているのではないらしいので全く違う自分となっているわけではないらしい。
酒
もうひとつ自分という人間の連続性が途切れる理由がある、深酒による記憶飛ばしだ。
経験のある方も多いかもしれないが、ある程度酩酊してくるとフッと記憶が薄れ、気づいたら翌朝ベッドに寝転んでいる自分がいてびっくりすることがある
記憶が無くなっている間も、自分は確かに意識があって会話をしていたり笑っているのにもかかわらず一切思い出せない。連続性が途切れている
この場合は翌日以降一緒に飲んでいた人間と会わなければ自分が何を話していたのか、何をしていたのか全く分からないので始末が悪い。今のところ一緒に飲んだ人間から嫌われていないのは不幸中の幸いだ。
記憶力の有無では無く、ただ単に酒で記憶を飛ばしている為本人に同情の余地はない。この記憶飛ばしで責められるのはまず間違いなく当事者である
今まで嫌われていなければ、まず周りのみんなに感謝しよう。あなたの周りの人間はあなたがベロンベロンになって日本語が通じていなくてもあなたと一緒にいてくれたのだから。
そしたら次に自分を褒めよう、あなたは酔っ払ってもそれなりに他人に配慮して過ごせている人間だ。
総評
ここまで読んでくれたあなたは、きっと自分という人間の連続性について疑問をもった人間に違いない。
記憶力の欠如によってあなたの人生をフルに楽しむことは出来ないだろう、そしてこれからもないのかもしれない。
しかし考えようによっては、記憶に残らない刹那的なエンターテイメントを味わっているということにならないだろうか、誰かの記憶に残らないだけで貴方という人間はどこかで誰かの歴史の一部になっているのだ。
記憶に残らないからといって通常より劣るということは決してない、酔っ払ってタクシーを待つ筆者は本心からそう思う。
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