先日地上波初放送したトイストーリー4、公開当時から賛否両論を生んだこの作品はなぜ評価が分かれたのだろうか?
あらすじ
“おもちゃにとって大切なのは子供のそばにいること”
──新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズらの前に現れたのは、ボニーのお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。
彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう…。
完成された前作
今作を批評するにあたってまず気になってしまうのは、なぜトイストーリー4が作られてしまったのかという点だ。
”オモチャがもし意思を持っていたら?”という原点から、2ではウッディの過去に焦点を当て、3では持ち主が成長した後のオモチャの行く末を描いた
特にトイストーリーを無印から成長するとともに見てきた世代からすると、
自分が遊んできたオモチャに対する想いも含め、3は会心の出来であったと言わざるを得ないだろう。
しかしディズニーは3の興行成績に満足せず、4も作っちまえば売れるだろうと続編を作ってしまった。
後述のポリコレに傾倒しつつ、その拝金主義の体質を白日のものと晒したのだ。
ポリコレ
近年の創作物の傾向として、ポリコレを重視したキャラクターやストーリーが多いことが挙げられる
チョコレートドーナツの様に社会的弱者にフォーカスを絞った作品には名作も多いが、ポリコレを重視した作品その全てが素晴らしいということではない
社会的に正しいから、と言ってそれが面白いかっつったらそうじゃないのだ
ポリコレを気にしたあまりに、作品の根幹を揺るがしてしまったのがトイストーリー4だったのだろう
ディズニー
特にディズニーはその傾向が強いスタジオで知られている。
近年で言えばスターウォーズシリーズのアジア人俳優の起用が有名だろうか。
ルッキズムと人種差別へのカウンターとして登場させたは良いものの、結局ぶっちぎりの不人気キャラクターになってしまったのは記憶に新しい。
筆者が思うに、作品の都合上結果的に社会的弱者にスポットを当てた作品は素晴らしいが、先にポリコレありきでのキャラクターやストーリーというのは手段と目的を混同してしまっていることに他ならない
ポリコレに対応したよ!見て見て!といういやらしさが鼻についてしまう、とでもいうのだろうか
所有されるという事
さて、今作が顰蹙を買った1番の理由だが、やはりラストシーンだろう
それまで誰かの所有物であったウッディが、9年ぶりにボーと出会い”持ち主がいない”という事への魅力に気付き、相棒バズと袂を分つこととなる
あれだけアンディとの絆を重視していたウッディはどこに行ってしまったのだろうか
ここで『所有されているということは不自由である』という今作のポリコレ向けのメッセージが読み取れる。
確かに所有されているという事は、過去有色人種に行なわれていた奴隷制や、人よりも家を大切にする家父長制などの前時代的な雰囲気を髣髴とさせる
そして「所有されている状態≠自由」であることも十分に理解できる。
しかしトイストーリーにおけるウッディやバズ達は「所有されている状態=不自由」な訳では無かった、
トイストーリーの世界観では、オモチャ達の至上の悦びは子供に所有され遊んでもらうことだったはずだ。
オモチャ達はアンディや人間に見られない様に暮らしていたし、真夜中しか自由な活動時間は与えられていなかったと言える。
ただこのトイストーリーという世界観で言えば、その設定は物語にペーソスを効かせる為の根幹を担っていたモノだったのである
キャンセルカルチャー
こうした物語の設定すらも変えてしまうポリコレ偏重の動きは、近年のキャンセルカルチャーにも通ずるところがある
過去のいじめ、犯罪、後ろめたい話題…臭いものにはフタをする。果たしてそれで面白いものが出来上がるのだろうか?
ポリコレ完全対応のストーリーしか受け入れられない、という先鋭化したリベラリストやフェミニストによる改変は少し行き過ぎているのではないか
ギチギチに固められた少なくとも映画や小説、マンガなどの物語の中ではある程度の”遊び”が無ければ傑作は生まれない
総評
今作がディズニーという屋号を背負い、トイストーリーという一大タイトルにも関わらず賛否両論を生んだのは、完璧であった前作に味噌をつけるような真似をしたからだ
今までのトイストーリーという世界観を無視し、”誰のものでもない=自由”という耳触りのいい設定をゴリ押ししてしまった
それは確かに主張としては正しい。
しかし”正しい主張”が面白い作品を産むかといえばそうではない、その生々しい標本がトイストーリー4と言えるのかもしれない。
コメント
本国では寧ろ高評価で、ここまで評価が割れたのは日本くらいなんですが…
本国での高評価についても言及して欲しかったですね。
コメントありがとうございます!
確かに本国での評価についても言及しなくてはいけなかったかもしれません…
作中でフェミニンだったボーがスカートを脱ぎ捨て
パンツルックの強い女性へと変貌し、ステレオタイプな女性からの脱却を想起。
多民族国家であり、現在も色濃く残る有色人種への迫害へとつながる奴隷制の歴史、
これが所有されるということへのネガティブなイメージを形成し
所有されることからの自由、というテーマに共感を覚える方が多かったのではないかと推察します。
日本も徐々に多民族国家への道を歩み始めていますが、
こうした流れが加速すれば、今作のようなテーマを持った作品の評価も逆転するのかもしれませんね。